2020年02月03日

「節分」ってなぁに?「鬼」ってなぁに なぜ「豆まき」するの

「節分」ってなぁに?「鬼」ってなぁに なぜ「豆まき」するの


本日は節分集会でした。

「鬼」ってそもそもなぁに?
保育士は改めてそのことを議論してきました。
「昔の人は自然災害を鬼や龍に見立ててきた」ことにつなげ、地震・津波・台風・日照り・飢饉・疫病などのない世界を望み厄除けをしてきました。
(季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられていたため、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われていた。Wikipediaより)

今年の保育園は、それを忠実再現し節分集会を行いました。
日頃から保育中に新聞や絵本なので自然災害や病気の話もしてきました。今日の節分集会での問いかけに子どもたちから「コロナウイルス」の単語も出ましたよ。

夜遅くまでゲームしてたら「目」や「頭」に鬼が出るかも?とか「お菓子ばかり食べたら栄養がたりな」とか大きいおにいちゃんやお姉ちゃんたちからからいろいろな声が出ていました。

「怖いもの」「嫌なもの(こと)」は、さがせばキリがないですね。
「鬼」が保育園に潜んでいないか?探索してみることになりました。
「去年おのが屋上にいたよ」という声で屋上へ行ってみることにしました。

先生たちは、ブルーシート等で鬼が隠れている状態を創り出していたので、勇気や好奇心を多めに持っている子は率先して探し回っていました。
大きいクラスのAちゃんは「嫌だ怖い、先生怖いよぉ~抱っこして~」とまだ鬼の姿が見えないうちに泣き出してしまいました。
繊細で創造力が豊かな心を持っているんですね。「先生の力では、大きいあなたを抱っこすることは出来ないけれど手をつないでいようね。大丈夫守っているよ」と声を掛けました。

昨年の鬼さんはみんなのところまで降りてこなっかったけれど、今年の鬼さんはみんなの近くで暴れていました逃げ惑う子、勇敢に立ち向かう子、先生の後ろに隠れて泣きながらブルブル震える子、子どもたちの様子はそれぞれです。力を合わせ勇敢に立ち向かう子が複数人いたので鬼さんは退散しました。

豆まきで怖がらせ子どもを大泣きさせるのはどうか?という議論があるそうですね。
私も常日頃から「鬼」を使って怖がらせ子どもに何かをさせる。というのは反対です。

仮に子どもが言うことを聞いたからと言って、果たしてそれが子どもが自主的にやったということにはなりません。
ただただ怖いから言うことを聞いだけの事ではないでしょうか?

子どもは「心」を持っているし「頭(考える)力」を持っています。
例えば公園でまだあそびた~い帰りたくな~いと駄々をこねたら「鬼さん来るよ」ではなく、帰る理由を話してあと何分遊ぶ?と待てる時間を子どもと話あったり、選ばせたり、楽しいんだね、じゃ今度また来ようね、いつがいい?今日ママは忙しいから帰ろうとか大人の気持ちを伝えたり、子どもが選ぶ選択しを提示したり、約束をしたり「決める」ことに子ども自身の意見を反映したり参加型の話し合いを重ねたほうが子どもの育ちに有効だと思います。(世の中には自由もあれば制限もあります。コントロールする力?できる力?を学ぶチャンスを奪っていませんか)

脅かしてその場はしのげても子どもは「怖いから聞く」という体験を重ねていくだけでしょう。

しかし、まったく怖いものがない・・・まったく喜怒哀楽の環境がない・・・

子どもは自分の気持ち・行動をコントロールする力が備えられています。しかし、そういう発達の機会が必要です。心がいつでも凪のように状態だと大人になっていきなり来た嵐へ立ち向かうことは出来なのです。

毎年2月にやってくる豆まきの行事の鬼さんは、きっと子どもに役に立つ「怖い」を提供してくれていると思います。



Posted by kazeuta at 19:00│Comments(0)
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